畑の隣は城だった 歴史編
 オレんとこの果樹を植えている畑は、すぐとなりに空掘がある。
城があった、と親が言うが、殿様がいてウチは城下町なんだとかかんとか時代劇と混同しているよーな怪しい事しか知らんので、だってさ、立て看板には、南北朝時代の城と書かれていて、江戸時代じゃないんだぜ。

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木が高く生い茂った場所が、城の遺構
1996年3月ごろ撮影

 オレが調べたる。
はるか昔、ここに城があった。
城主は、那珂氏といった。

 戦国時代よりもさらに昔、もっと昔の南北朝の戦国時代のこと。
奥州軍が、はるか京都をめざして、大遠征を開始したのだ。
軍勢は、勿来の関(なこそ、と読み、蝦夷に対し、来るなかれという意味の関所)を越えて、常陸の国(現在の茨城県)に侵入した。

 山と海に鋏まれた狭隘な場所にさしかかったとき、常陸の北朝方が奇襲!、と思いきや、その北朝方の背後から、南朝方に奉じた那珂氏の通辰が北朝方に奇襲攻撃をかけたのだ。
北朝軍を撃ち破って大勝利!して、奥州軍と合同、大軍をもって東海道を長駆西上して、足利尊氏軍を撃ち破って京都に突入、上洛を果たしたのだ。

 天皇に謁見して故郷に凱旋した後、足利尊氏が九州で逆襲に転じた。
楠正成は湊川で戦死し、南朝方は劣勢になっていく中、那珂通辰は出撃し、楠一族の者を迎え入れて、北朝方と激戦が行われた。
京都からはるかに離れた関東の辺境において、北朝と南朝にわかれた天皇家の正統の座をかけて決戦が行われ(大げさな説明でやんす)、那珂通辰は破れ果て、一族は戦死または切腹または殺害されて、那珂一族は全滅したのだ。

 その後、南朝方の奥州軍も壊滅、南北朝は北朝に統一されて、室町幕府の世が続くことになる。
那珂氏の那珂西城(なかさいじょう)は、そのまま廃れて埋もれるところだったが、徳川光國(あの水戸黄門)が、寺をこの城跡に移転させて(宝憧院 ほうどういん という名前。「院」の字は囲まれている意で、現在も掘や土塁に囲まれている)、那珂西城跡は寺院として現在に至ることになる。

 徳川光國の大きな功績は、多くの悪代官を懲らしめた、わけじゃなくて、歴史書「大日本史」を編纂したことだ。
この歴史書を書くために史跡を訪ねて調べたり、といっても実際には水戸藩や江戸の周辺ぐらいしか歩いていないが、家来を日本各地に派遣して現地調査を行った関係で、徳川光國は庶民の生活にも馴染みが深く、助さん角さんも歴史書編纂のための学者だった、といえばわかりやすいと思う。
テレビなどの水戸黄門漫遊記はこのような事情がベースになっているわけだ。

 那珂西城は徳川光國の隠居地と一応近いので、たぶん来たかもしれないが、さて、数百年たって、昭和初期には大きな石碑が立った。
そこには、正義のために戦う男「那珂通辰」を称える内容が書かれて、忠臣とか義に殉じる、とか、なにしろ建立が戦前なので、今となってはあんましハヤってない概念だが、文章を作成したのが教育委員会というのが余計な意味ありげなカンジで、陸軍大臣の署名まで付いている。

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夏草や、つわものどもが夢の跡

 だが現実の歴史は、事実は小説よりも奇なのか、その後の文献研究で、この那珂西城は那珂通辰の居城ではなく、別の系統の那珂氏だったことが判明した。
那珂氏の苗字の文書が残っていたので、ここがあの那珂通辰の城だと勘違いされてしまったらしい。
だからこの那珂西城としての名所は何だ?となると、困ってしまうのである。

 名物は、陸軍大臣の石碑かな…。
というわけで、さてさて、オレが果樹畑を雑草だらけにしているのは、つわものどもを偲ぶためなのである(モノグサの言い訳!)。

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